2018年9月27日木曜日

楽しいとはなんですか?


 私達は錯覚の『楽しさ』を見ているのかもしれません。
 本来の『楽しさ』は、砂漠で一人で歌を歌うようなもので、何もなくても続けたくなる。
 賞賛や名声、あらゆる物を忘れて続けたくなること、それが『楽しい』ことかもしれません。 









肯定
 もしかしたら、僕は『楽しい』という有限の錯覚を見ているのかもしれない。
 錯覚を見ているから、『楽しい』に気づけないのかもしれない。



テツガクちゃん
 『楽しい』という錯覚ですか?


肯定
 そう。結果を出して賞賛されたり、名声やビッグマネーを得たり仲間を得たり。
 でもさ、それと『楽しい』は関係ないのかもしれない。

 褒められなくても、何もなくても、『やりたい』と思えること。
 そういうのが、本当は『楽しい』ということなのかもしれない。
 
 どうしても、結果を出して褒められたり、満足感を得ることが、『楽しい』というイメージになっている。
 でも、それとは全く違うことが『楽しい』ことなのかもしれない。


テツガクちゃん
 それは、砂漠で一人、歌を歌うようなことですか?
 
 誰が聞いているかもわからない。
 誰も聞いていないかもしれない。
 だけど歌う。
 一人でブルーハーツの『人にやさしく』を。

 誰に向かってガンバレって言っているのか、わからないけど。
 気が狂うほどにガンバレと叫んでいる。
 一人、砂漠の真ん中で。


肯定
 それだよ!
 誰に対してガンバレって言っているのか、わからないけど叫び続ける。
 ある意味、そんな自分に対してガンバレって言っているのかもしれないけど。

 誰もいない、誰にも見られない、そんな場所でもやりたいことが『楽しい』ことかもしれない。
 
 だけど、身近にある『楽しい』のイメージは、それとは、ほんの少し違う気がする。

 少なくとも、僕に見えるイメージは全く違っていて。
 『楽しい』は結果を出して、満足すること。
 そんなイメージで、そう認識している。
 そんな錯覚を見ているから、『楽しい』がわからないのかもしれない。


テツガクちゃん
 たしかに、『楽しい』に対するイメージが違うと、何が『楽しい』のか、わかりませんね。

 ですが、それでいいんじゃないでしょうか?
 洞窟に囚われた人のように、壁に映る影の正体が見えなくても。

 みんな、見えない影を追っているじゃないですか。
 幸せとか、自由とか、夢とかの影を。

 そういう曖昧な概念は、追いかけるのを忘れた頃にきっと目の前に現れますよ。虹のように。
 その瞬間まで答えを忘れて、夢見心地で続けたらいいのかもしれません。
 
 答えをはっきりさせなくてもいい。曖昧な中間色のままで。
 だけど、それはいつかわかること。

 突然、現れる閃光のように。

 
肯定
 そうだね。
 それまで電光石火を目指して、夢中で時空の銀河を駆け抜けるのもありだね!

 結局、僕が『楽しい』の錯覚を見ていたのか、わからない。
 僕が考えた、『何もなくても続ける』ことの方が、錯覚かもしれない。


 だけど、そんなことはどうでもいいのかもしれない。
 現実か幻なんて重要じゃない。
 中間色の幻実を突き進む。
 そんな旅ができている、今があれば。

 あなたにとって、『楽しい』とはなんですか?
 錯覚を見て、『楽しい』を見失っている僕に、あなたの解釈を見せていただけると嬉しいです。









それでは、また次の機会にお会いしましょう。

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無関心は希望

 好きの反対は無関心。  そんなたわ言、誰が言ったのか知らないが。   今の私からすれば無関心は希望。  今まで気づけなかった、その未知は。  愛しの故郷、待ちきれない今は夢の今。