2021年9月5日日曜日

さいこう、私達1号


 完全無欠の完璧超人、ホンモノの優等生。
 そう思っていた彼女も同じ落第生。
 限りなく聡明で、一般的な値、答えが決まった問題ではわからない、1号。
 だから、『涙の俺1号』の涙にも気づいてしまう。





 二人の正太郎を紹介した、あの日から。僕とテツガクさんはとまることなく。一緒に帰り続けていた。
 そんな事実が一つ、また一つと重なるにつれ。どこか安心している僕がいて。その影から余計な余裕を持った好奇心があらわれ、疑問符にとり憑かれていた。
 初めて一緒に帰った翌日から数日。その中間、彼女は何をしていたのだろうか?
 約束を忘れず、果たしてくれた彼女。その後も続いている、放課後の帰り道。
 正直、新しい部活動のように感じてしまうほど、当然に自然に過ぎていく、この道にあった空白。それは、違和感の欠片もない帰り道とは対照的に、違和感そのもの、正真正銘の未知だった。
 しかし、直接それを本人に訊けない僕の小心と臆病は、二つ合わさっても一人前には程遠く。それを訊くのは、野暮だ、なんて一瞬も思ったことない理由に。直接訊ねない、その責任を押し付けていた。
 そんなポケットの中の弁論を終わらせる、不意の声が帰りのホームルームに響いた。その主は担任の川俣先生の声だった。
「テキトウさん、ちょっと」
 手招きする先生のもとへ、ちょうどいい速度で向かっていく彼女。
 辿り着いた教卓横、紙を見せながら何かを言う先生に対し、ペコペコと頭を下げる彼女。
 二人の間の会話の内容は全く聞こえなかったが。二人の表情がどんな用件だったのかを幽かに表していた。困った顔の先生の表情は徐々に緩み。一方、彼女の表情は終始一貫、申し訳ない情を表していた。
 先生の話が終わった後、何かの紙を受け取り、戻っていく彼女の表情は意外にも明るかった。だけど、その一部始終を自分の席から眺めていた僕は違った。少し心配になり、ホームルームが終わってすぐ、彼女の席へ向かった。
 先ほどの会話の内容を訊ねるのではなく。彼女に何か言ってあげたかった。季節外れなあたたかい飲み物のようなことを。
 しかし、期待外れな今、終わったはずの小心と臆病の弁論が、場所を井戸端に変えて再び始まった。
 季節外れでも期待外れでも、ほんの少しの勇気があれば一歩外へ。きっと、論外へだって踏み出せるのだろうけど。相変わらず、論ずるだけで、伝えたい気持ちを表せない僕は、進級できない落第生。
 そんな僕に気づいてしまった彼女も、また違う落第生。その事実を知る由になる瞬間の一歩目が、井戸端の中の弁論を終わらせた。
「あっ、肯定さん。わざわざ、迎えに来てくれたのですか?」
 終わりと同時に始まりの合図に気づかず。しばらく、ココア、ホットレモン、コーンスープ、おでん……どれを彼女に受け取って欲しいか。最もな理由を探し、悩み続けた僕の落下傘は、燃え尽きて真っ逆さま。無様に落ちて、訳のわからないボタンを押した。
「……えっ、あっ、とりあえず、アポロは11号」
 しばらく、疑問符にとり憑かれた彼女だが。難なく打ち返す、四方八方裏肘鉄砲は7号。本塁打競争、独走の打球。
「それならば、私のケーキは夢の7号です!」
 自販機もなければ、発射台もなく、クリスマスにも程遠い。趣旨不在の放課後の教室で、彼女は笑っていた。そして、僕も同じように笑う。ほんの少し苦さを噛みしめるように。
 同じだけど違う、僕らの笑い方。そんな不可思議な今、どこまでも、飛んで欲しい、そんな燃え尽きた気持ちを乗せて。改めて、もう一度。小さく大げさな勇気と共にもう一歩前へ、僕は彼女に申し出た。
「そう、迎えに来たんだ。ひとりだと心配だったから。ケーキは7号、アポロは11号、鉄人は28号。それならば、きっと、僕らは……今日も一緒に帰ろうよ」
 僕の答えを最初から知っていたかのように、彼女は満足そうに支度を済ませ席を立ち歩き始めた。前を歩く彼女、後ろを歩く僕。まだ並んで校内を歩けない僕らが辿り着いた駅は一階の下駄箱。そこから昇降口発帰り道線へ乗り換え。ゆっくりと一歩ずつ確実に、放課後の校舎を後にした。
 
 
 趣旨不明の放課後。その先の帰り道線へ辿り着いた僕は。今の彼女に受け取って欲しい気持ち。それを紹介する、始まりの瞬間を次の外灯に期待した。あの次の外灯が、未だ来ない場所から過ぎ去った場所へ流れた時、これを紹介しようと。
 しかし、そんな期待は、この論外な放課後の先の帰り道では、何の期待もできない役立たずな会話標識。あっという間に、期待の外へ流したのは。隣を歩く、ケーキは7号、四方八方裏肘鉄砲は今、この瞬間、8号。論外の場外へ伸びる、打球を飛ばした、彼女のお蔭。
「実は……私、この前の中間テストで赤点を取ってしまったんです。英語と現代文と数学で」
 なんとなく、そんな雰囲気を察していた。だから、彼女をひとりにしたくなくて、思わず彼女を迎えに行ってしまった。
 特別、赤点を取ったからといって。今、この瞬間が消えてなくなってしまうわけではないが。それでも気になったのは、同じ似た者同士の落第生。落第したのが違う試験でも。
「あっ、でも、ちゃんと補習を受ければ大丈夫みたいです! ちょうど、肯定さんと初めて帰った、あの日の翌日から補習で。バッチリ、補習を受けてきました。ただ、こういうことが続くと追試だそうです」
 そう丁寧に説明してくれた彼女のお蔭で。僕の小心と臆病は黙り込み。それまでのぎこちなさが嘘のように消えて。幽かにあらわれ始めたのは、1号だった。
「そうだったんだ、お疲れ様。……でも、ちょっと意外」
「意外、ですかね?」
 何が意外なのか、それがわからない。そんな疑問符にとり憑かれ、不可思議そうに覗く彼女の表情。それが、改めて、その意外さをより強く表しているように感じたのは。きっと、ホンモノの1号。
「だって、テツガクさんって勉強ができそうな。そんな雰囲気があるし。ほら、完全無欠の完璧超人。ホンモノの優等生という感じがしたから」
「もー、なんですか? そのスーパー怪人みたいな私の印象は。……ですが、先生方にもそんな感じのことを言われました」
「だろうね、不思議に思っている先生方の表情が容易に浮かぶもん。昨日見た夢よりも」
「昨日見た夢ですか? いったい、肯定さんはどんな夢を……。はっ、それよりも。そう言う肯定さんこそ、全教科満点のハイパー優等生なんじゃないですか?」
 そう膨らませた期待を瞳に集めた彼女だったが。その輝きも一瞬で燃え尽き。開くことのない落下傘の成れの果てと共に、同じ意外さへ不時着することになる。そんな答えを予想の外から飛ばした僕。
「いや、全教科赤点ギリギリだったよ、たぶん。詳しいことは忘れたけど、僕も注意はされたよ。もう少し頑張ろうって。だから、同じ似た者同士だね」
 さっきまでの僕と同じような表情になる彼女は、やっぱり、同じ似た者同士。
「えっ、肯定さんがですか!?」
「ちょっと待って、それは少し違うと思うよ? 僕は当然で、テツガクさんの方が意外だよ」
「賢い肯定さんは、赤点を回避するのが当然だと?」
「そうじゃなくて。なんだろう……ほら、人のイメージってあると思うんだよ。テツガクさんは聡明というか……」
「つまり、本当の私は聡明ではないから、意外だと?」
 そう笑いながら答える彼女。その表情には怒りなんて微塵の欠片すらないが。それでも、随分失礼な言い回しだったと。わかりやすく、気づかせてくれるほど聡明な笑い方だった。
「いや、ごめんね。限りなく、テツガクさんは聡明だよ。ホント、困っちゃうよね。でもさ、やっぱりテツガクさんは……赤点よりも満点。そんなイメージがね。ほら、ハイパー優等生って感じ」
 そんな言い分を伝える僕の瞳の奥の方を探る、その彼女の瞳の奥は。答えのない問題にも臆することなく向き合える、勇敢さ。そして、様々な問題も受け止められる解釈を持っている。そんな印象だった。
 しかし、それが、彼女にとって大きな重しになっている。
 そんな可能性に気づかせてくれた、今、この瞬間は。ほんの少し、彼女に近づけた気がした覚えが錯じっていく、錯覚だった。
「ホント、困ってしまいます。私だって、授業中ウトウトしますし、居眠りをしてしまうこともあります。それから、赤点も取ります。なんでしたら、0点だって取ったこともあります」
 少しうんざりしたふりをしながらも。笑いながら秘密を明かした彼女に続いて。僕も、そう返したかったけど。小学校までさかのぼっても、0点を取った記憶がなく。不謹慎にも0点が少し羨ましく思えた。
 それと同時に、幽かに気づいた。彼女の場合、いわゆる一般的な値、答えが決まった問題ではわからない、1号だと。
「もしかして、テツガクさんって……テストとか嫌い?」
「そうですね、どちらかと言えば嫌いですね。ですが、どうして、そう思ったのですか?」
「なんとなく……」
 そう答えたのは、うやむやにお茶を濁す、ごまかしではなく。本当に、なんとなく、幽かな気持ちで。馴れ馴れしく、気持ちがわかるとは答えられない問題だった。
 そして、その問題に挑むように僕も秘密を明かすことにした。
「実はさ、僕もテストは大嫌い。それから、英語はテストよりも嫌い。いや、嫌いとかじゃない。僕の奥の方にある、1号が。それは、覚えてはならぬ。そう訴えるんだ」
「1号がですか?」
「そう、1号が。いい訳に聞こえるだろうけど。不思議と今の僕にとっては、それが本当のことのように思えて。きっと、他の誰かには必要だと思う。満点を取っていく歩き方がね。だけど、僕に必要なのは満点とか英語じゃない。そう訴える、この言い分。それは、限りなく本当な気がして。そう、これなんだ。これが今の僕には必要なんだ。限りなく本当だと信じられる、本心が」
 そんなことを誰かに明かしても、欠片も理解されない。そう気づいていた1号が。なぜか、彼女には明かしてもいい、と訴えたのは。たぶん、同じ似た者同士だから。
 そう運命の解答用紙に自分の答えを描いた、その隣。永い静寂の中、沈黙を守る彼女は深い縁を覗きながら。その底にあった何かの答えに気づき。僕と同じように運命の解答用紙に描いてあらわした。
「たしかに意外ですね……いえ、もしかしたら、これは必然なのかもしれません」
 先ほどまで僕が感じていた意外。それを彼女が感じることになる。きっと、それが必然であることは、なんとなく気づいていた。
 しかし、彼女が何に必然を感じたのか。その正体は、今、この瞬間の僕には知りえない未知。それは、僕の想像の中で果てしなく伸びて、やがて見えなくなった9号。
「たぶん、そうだよ。何が必然か、今の僕にはわからないけど」 
 そう素直に正直に僕が答えた頃。同じ似た者同士の彼女も、素直に正直に何かを明かす、その一歩を迷うことなく踏み出した。
「実は、私も英語が苦手です。というより、私に英語は無理でしょう」
 同じ科目が嫌い。そんな表面的な必然さではないことに、僕の無意識は気づいていた。
 ただ、なぜ、苦手なのか。
 それを訊ねる前に、彼女がその理由を明かし始める。
「今回のテスト範囲で習った文法で質問に答えなさい。そんな問題があったんです。ただ、どうしてもスペルがわからない単語がありまして。それで、その単語を使わずに、覚えていた単語と文法で代用して答えたんです」
 彼女を苦しめた問題。『なぜ、あなたはエースのフォーカードが好きなのですか?』この英文を理解して、答えもわかっていたらしい。
 ただ、『なぜならば』という単語が書けなかった彼女は、『私はエースが好きです』という初歩的な文で返したそうで。もちろん、その結末は減点だったらしい。
 しかし、エースのフォーカードが好きな、A4Bがそれで引き下がるだろうか? いやいや、そんなはずがない。まだ、彼女のことをよく知らない、この時の僕ですら。幽かだけど気づいていた。
「私、どうしても納得できなかったんです。減点はかまいません。点数を上げてもらおうとは思いませんでした。ただ、この答え方が本当に伝わらないのか。それを先生に訊ねに行きました」
 なるほど。僕はそう感心しながらも、先生が彼女になんと答えたのか。それが気になって仕方がなかった。
「そしたら、伝わらないことはないと思う、ということでした。ただ、テストでは習った文法で答えないとダメ、と」
 いわゆる、一般的な答えだった。
 そして、それは僕が期待した答えとは違った。きっと、おそらく彼女が期待した答えとも違ったのだろう。
「そっか……なんかやりきれないね。だって、そうじゃない? 普段、僕らだって、『なぜ?』って訊かれて、『なぜならば』なんて返しやしないのに。もちろん、それを習ったのだから。そう返すべきだけどさ。でもさ、何のために英語を勉強してるんだろうね?」
 そう僕が答えると、静寂と沈黙が揃って三人分の時間に座り込んだ。
 きっと、今、この瞬間、僕らは同じやりきれない気持ちを感じている。
 そんな覚えが錯じる錯覚の中。もう少しだけ、彼女に近づきたくて。もう一歩、僕は踏み込んだ。
「僕は、テツガクさんの姿勢って大切だと思うよ。どんな形でも答えようとする、その聡明さ。きっと、それがあれば、言葉が通じない誰かとも何とかなる気がする。それに――」
「それに、何ですか?」
「いや、その聡明さがあれば。教科書に載っていない場所にも行けるじゃない。教科書文法では、どうにもならない場所もさ。それって――」
「最高ですね! 今まで気づきもしませんでした! さすが、私のR'N'Rボーイです! とっても聡明でイカしてます!」
 いつの間にか、彼女のものになっていた、僕。
 その不意の言葉に、頭の後ろの方をかきながら明後日を観察するふりをしたかったが。あまりにもかじかみ過ぎて、嬉しさの中へ歯止めもかけずに突っ込んでいた。
 そんな僕を待っていたのは、一般的な値でははかれず、一般的な答えでは満足できない、彼女の元荒川カーブだった。
「あの話は変わりますが……いえ、なんとなく変らない、そんな気もしますが。さきほど、肯定さんが言った1号とは、何の1号ですか?」
 緩やかに曲がりながら下れば、何れは合流する川。
 明かすのを忘れていた、蒼い逆川のような気持ち。それを明かすべき刻が、今、この瞬間だと理解する、それよりも前に加速し始めた僕の本心は。影のように光の残像を連れながら、趣旨不明の放課後から抜け出した。
「『涙の俺1号』っていう歌。本当は、それを紹介したかったんだ。だけど……」
 少し恥ずかしくて、よく考えたら迷惑かもしれない。それでも、やっぱり伝えたい、紹介したい、1号を。様々な気持ちが錯ざって、とてもホンモノの青ではなく。緑のようなニセモノの蒼は細く短く逆さまな川。立派な川とは程遠い、そんな感じの心情だった。
 しかし、僕は忘れていた。今、この瞬間、一緒に帰り道線を下っているのは。一般的、そんな言葉には収まらない、エースのフォーカードが好きな、WAGAMAMAバディー、A4Bだということを。忘れてしまった、その事実は10号、本日4本目。
「もう、面白いことを言いますね! 既に紹介しているじゃないですか? それで、『涙の俺1号』とは、どんな1号なんですか?」
 気がつけば、蒼い逆川は元荒川へ合流していた。
 このまま彼女の速度。その事実が嬉しくて、見えない嬉し涙の僕1号は飛び出した。
「アポロは11号、鉄人は28号。だけど、僕らは1号。月には行けないし、強くもない。12号にも27号にもなれない」
 季節外れの期待外れ、拍子外れは常識外れ、外れた歯車は論外の速度。
 息を潜め隠れて
た僕の本心は加速し続ける。
「きっと、それは『さいこう』なことだと思う」
 さすがに飛ばし過ぎた。前にも後ろにも彼女が映らないほどに飛び出した。
 そんな気がした静寂の中。感覚の外から内側へ迫る、速度の気配。
 その主も同じ似た者同士の落第生、しっかり隣に並んでいた。
「さいこうですね。最高でもあり、最幸でもある。もしかしたら、最攻が最好。最も考える最考かもしれません。なんせ1号ですからね」
 そう笑う彼女は何も変っていない。教室からずっと。
 だけど、ほんの少し僕は違った。校内ではまだ並んで歩けなくても。今、この瞬間、この帰り道線の上では。このまま、並んでいたい、そう思う本心に素直に正直に従っている。
 そして、教室では言えなかった気持ちも遅れて合流した。
「そう、だからさ……気にしないでよ。僕らは2号、3号ってなれないけど。1号だから。赤点をいくら取っても1号は1号。さいこうなのは変らないよ」
「本当ですか? 赤点を五つ揃えても、一緒に帰ってくれますか? 今日みたいに」
 そう問う彼女の心配の色は真面目な憂色。だけど、僕が知っている彼女は中間色。染まりきれない、奥の中間色が見えた僕は笑う。辛さ酸っぱさ苦さ冷たさなどを感じることなく。ただただ笑った。
「何を言ってるの。僕らは同じ似た者同士の落第生じゃない。五つでも八つでも、不可思議に揃えても、一緒に帰ろうよ」
「そうですね、同じ似た者同士……いえ、ちょっと待ってください! 私は赤点を取りましたが、肯定さんは取っていないじゃないですか! 安全圏から言うなんて賢いですよ」
「えっ、僕、安全圏にいるの?」
「そうですよ、赤点を取った私とギリギリですり抜けた肯定さんでは……」
 彼女のハッキリとした口調が、幽かな呟きのような口調に変わる。
 その理由は曲がり角を手前にした歯止めなし走法。
 抜け出す体勢に入った彼女は加速しながら抜ける。
「いえ、肯定さんが言うように。私達は同じ似た者同士の落第生。赤点を取った試験が違っても、受けた補習が違っても、同じ1号ですね。いったい、肯定さんが、どんな試験で赤点を取ったのか。それは、わかりませんが」
 彼女の答え。それは一般的ではわからない。そんな未知を知ろうとする、勇敢な聡明さを確かな重さと共に表していた。
 勇敢な聡明さを持つ彼女なら。きっと、気づいてしまったのだろう。教科書の外、そこが範囲の試験で赤点を取った僕に。今、その補習を受けている僕に。終わって欲しくない、この瞬間も、そろそろお別れだと気づいてしまった僕のように。
 視界に帰り道線の分岐点の橋が映る。
 この先、僕はあちらへ進み、彼女はこちらへ進む。夢の中のような補習はあっという間、人生の下り最速だ。嬉し涙も渇いてしまう。
 彼女もあの橋に気づいたような雰囲気が漂う。そして、お別れの挨拶がやってくる。
 そんな僕の想像は、あまりにも一般的な結末。『なぜ?』と訊かれて、『なぜならば』と返す教科書的な話。だけど、ココはワンダーランド。教科書には載っていない、たからじまの『Emotional Fire』は消えない。
「『涙の俺1号』でしたよね?」
「え?」
 想像の遥か外、そこからやってきた問題は11号。その勢いに間が抜けた疑問符が飛び出した。
「ですから、さきほど紹介していただいた歌。あれ、違いました? 『男涙の1号』でしたか?」
「ああ、いや、『涙の俺1号』でいいんだよ。だけど、どうして?」
「帰りにレンタル屋さんで探してみようと思いまして。聴いてみたいんです、その歌」
 驚いた。そう表すしかないほどに驚いた。
 ただの話題と流していいことを、しっかり受け止める彼女は、どの桃に桃太郎が眠っているのか。それにも気づいてしまう気がした。
 しかし、この話に眠っているのが桃太郎とは限らない。鬼が島の鬼かもしれない。いや、鬼ならまだいい。ただただ情けない落第生の思惑。それが勢いよく申し出た。
「それなら、明日、僕が持ってくるよ。ライブのCDなんだけど。それでもよかったら」
「本当ですか!? それもライブ版! お借りしてもよろしいんですか!?」
 もちろん、聴いてくれるなんて嬉しいよ! 是非、他の歌も聴いて。なんて本心は表す前に燃え尽きた落下傘。嬉し過ぎて、頷くことしかできなかった落第生。
「嬉しいです! 実は……気づいてしまったんです、私。安全圏にいたのは私の方だと」
 随分、聡明な言い分に、速度超過気味の僕の本心は、理性へシフトチェンジするのが遅れた。そのまま、流れるように続く、彼女の言い分。
「きっと、私も肯定さんも。お互いについて、知らないことがいっぱいあるはずです。教科書には載っていない、秘密の立場。それを赤点を取ったか、取らなかったかで決めてしまうほど。安全な立場もないな、と。今さらですが……」
 教室で川俣先生に見せた、申し訳なさそうな情を表す彼女。それをできるだけ早く解きたかった僕は、やっと追いついた。
「それなら、僕だってそうだよ。なんとなく、雰囲気でテツガクさんのことをハイパー優等生って決めていたから。イーブンの同じ似た者同士、そんな1号じゃない?」
「そういえば……そうですね。きっと、イーブンですね。それなら、また明日、延長戦ですね」
 また、明日。それに期待してはいけない。
 そう気づいていたけど。なんとなく、同じ似た者同士の1号の僕らに、勝ち負けなんかない気がした。だから、どこまでも延長戦が続くのだろう。
 今、この瞬間のように果てしなく。そんな期待が飛ぶ、明日の空。なにをおもうか、明日の空。僕らは同じ1号、彼女が放った本塁打は今日で11号。本塁打競争、独走中。
 現在、本塁打王の彼女は決まりごとのように。僕の前へ出て、くるっと振り返り言った。
「今日はいろいろありがとうございます。とても嬉しかったです。それでは、明日、楽しみにしています!」
 そのまま、後ろ姿の残像を影のように残しながら、こちらへ駆けて行った彼女。
 これまでは、見えなくなっていく後ろ姿に寂しさを覗いていたが。今、この瞬間、期待を覗いてしまう、その理由は。明日の僕に期待してくれる彼女がいたから。
 帰り道線の分岐点の先。今までと同じ道でも、その上を歩く僕の心情は、今までとは全く違った。早く帰って、早く寝て、早く登校して、一秒でも早く彼女にCDを渡したい。この心情は峠を攻める走り屋に近い。そんな気がした僕はあちらを進んだ。
 
 
 帰宅後、宿題などを済ませ、鞄に明日を詰め込む。
 最後に手に取ったのは『YETI vs CROMAGNON TOUR』という名のCD。それを本屋の黒い袋に隠し鞄へ入れた後、その事実が信じられない自分がココにいた。
 なぜか? なぜならば、他人のことなんて知らないし、意味ないし、興味ない、SIK。それが流行の常套句、誰もが使う引用句、理想郷への片道切符。『情報時代の野蛮人』に憧れたが、寡黙にはなりきれない、余計なお喋り屋はこの世界に自分一人だと信じていた。
 だけど、そんな自信はトタン屋根の上。そう気づかせてくれた、同じ英語が苦手の彼女がいた。
 聡明でイカした彼女。されど、お互い知らないこと、わからないこと、そんな秘密だらけで得体が知れない。果てしなく広がる教科書の外で眠る、その秘密を探す正解なんてどこにもないが。それでも、それなりに伝えたい気持ちがあれば、眠っている秘密にも届くのかもしれない。
 そう思えた僕には、英語なんて魅力の欠片もなかった。
 最初からなかったが、より鮮明にそうなってしまった。
 教科書どおりの答え方や正しいスペルでないと、何も伝わらないらしいアメリカ人やイギリス人にカナダ人には、最初から何も届かない。きっと、それは錯覚や誤解ではなく。限りなく本当のことだと、僕の本心は気づいていた。
 教科書どおり、一般的な何か、答えが決まった問題。それらが学校の外にも続いているのなら幸せだが。たぶん、そうではないことを、僕も彼女も気づいている。そんな錯覚の中へ飛び込んだ。
 同じ似た者同士、落第生の1号。なにを見るのか1号。なにをおもうのか1号。僕らは今、この瞬間。どこへ向かうのか、今、この瞬間。
 その答えが知りたくて夢の中へ。一般的とは無縁なワンダーランドへ。教科書には載っていない秘密の場所へ。落第生の補習は終わらない、人生は永遠に未完成だから。
 きっと、今まで詰め込まれ、背負わされた、くだらない事も。これから見るであろう、睡眠中の夢のように忘れ去りながら下っていく、人生の下り道。
 あっという間の最速神話はWAGAMAMA、四つ揃ったAは、不戦神話のA。




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砂漠でアマゾンを探している

 多くの人は砂漠でオアシスを探している。  平和ってオアシスを信じて、求めて彷徨う。   隣にアマゾンがあっても、砂漠の中で探す。  今、本当に欲しいもの、ITを忘れかけながら。  砂漠のオアシスなのか、豊かな水源があるアマゾンなのか。