才能なんて、ありはしない幻です。
それは、誰に対しても等しく平等な当たり前です。
そして、人が幻を信じる事が好きなことも同じ当たり前です。
ですから、大切な意志だけは手放さないように。
肯定
どうして人は、才能なんていう。
ありはしない幻を信じ続けるのかな?
僕も様々な幻を信じているし。
そういう信じる気持ちって、凄く大切だと思うけど。
才能はね……。
ないし、あっても、ろくなことはないのに。
テツガクちゃん
本当にろくなことがないのか。
それは、私にはわかりませんが、才能は幻ですよね。
外からは確かにあるように見えて、その中では見えなくなってしまう。
幸せや夢、資格の形に似ていますね。
いわゆる、隣の芝生という現象です。
肯定
そうそう。隣の芝生だね。
誰かに対して、『才能がない』と判断できる。
もし、それほどの目利きの才能があるのなら。
なぜ、それを自分だけに使わないのだろうか?
全ての決断。
その先が見通せる。
その才能で、はっきりと答えを決めていく。
そもそも、それらが本当にできている。
そんな人は、どれくらい、いるのだろうか?
さらに、その才能を自分のためだけではなく。
誰かのために使う、そんな聖人君子みたいな人。
そんな人は、本当にいるのだろうか?
テツガクちゃん
私はいないような気がします。
もし、いるのなら。
石を投げるよりも、ステキな景色を見ているはずです。
罪なき者だけが石を投げろ。
だけど、本当に罪がないのなら。
石すらも投げないはずです。
誰かを裁くなんて。
そんな大罪は犯さないでしょう。
誰かに石を投げる資格。
そんな資格は、私の目には見えません。
代わりに、私はこの資格が見えない、という意志を大切にしたいです。
誰かに投げつけたりせず。
永遠に手放さない意志です。
肯定
ステキな意志だね。
是非、そのまま手放さないで。
才能なんて、ありはしない幻。
それは、誰に対しても平等な事実。
当たり前なこと。
だけど、それはとてもステキな当たり前。
できなかったこと。
それが何かを重ねることで、徐々にできるように形が変わっていく。
それは歪みの力のお蔭。
才能があるから、できるのではなく。
何かを重ねることで歪んでいくから。
できるように感じる。
その歪み方は人それぞれだから。
隣の芝生を見た時のように。
お隣さんは天才だ、才能がある、と感じる。
そんな歪みが見せる、錯覚の一つ。
もし、才能が本当にあるのなら。
全てを見極め判断する目と、歪まない気持ちを主張できるのなら。
直接、誰かに才能がないよ、と言って。
相手を傷つけたり、怒らせたりして、その先で争いが起きないか。
その輝かしい才能に問いかけてみてください。
ちなみに、僕には才能はありません。
自分の気持ちすらよく歪み、それが上手く相手に伝わらず。
傷つけたり、怒らせたりすることは、よくあることで。
もう、当たり前のことです。
だけど、伝わらないからできることもあって。
そういう歪みや錯覚、そういう当たり前のお蔭で描ける物語。
才能がないから物語を描けるのかもしれません。
もし、才能があれば、物語にする必要がありませんからね。
あなたはどうですか?
才能という幻が欲しいですか?
欲しいと望むのなら、きっと出会うでしょう。
その時は、周りの石にご注意を。
才能を目掛けて石が飛んできます。
残念ながら、僕達にはそれをどうすることもできません。
そういう才能はありませんから。
ただ、才能を否定されても。
それは、あなた自身が否定されているわけではありません。
だから、大切な自分の意志はどうか手放さないように。
安っぽい才能という幻と交換などしたりせずに。
それでは、また次の機会にお会いしましょう。
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