テツガクちゃんと肯定の不思議な物語の第四弾です。
不思議な書斎に迷い込んでしまった作家が出会ったのは、書斎の管理人の山羊。作家は管理人と話をしながら、探し物を探していく。作家がこの書斎で探していたものは……?
序章、一章、二章、序章。
全四章の短編です。
今回の話は『ザ・クロマニヨンズ』の『鉄カブト』 という歌などの影響を受けて描いた物語です。
それから、このブログにある『テツガクちゃんと肯定』の話題も使われています。
序章 人生の書斎に迷い込んだ作家
人は誰もが偉大な作家である。一人一人が他の誰とも違う物語の軌跡を描く。その物語はまるで星座のようだ。これは遠い昔の旅人が残した言葉だ。
自分もそう思う。
物語の軌跡に必要な点は無数に増え、やがて頂点に達する。一つの原点から始まった軌道の物語は頂点を超え、また原点に戻る。
その物語を築く無数の星星(ほしぼし)は、常に存在と同時に存在しない。そう曖昧な存在だ。
例えば、この僕。僕は野球選手だし、サッカー選手でもある。さらに、映画スターでもあるし、学者でもある。その事実は信じられないでしょう。僕もです。
実際の僕は書斎の管理人。スポーツ選手でもないし、文化人でもない。だけど、この書斎にはスポーツ選手の僕の物語、文化人の僕の物語。あらゆる僕の物語が本棚に並んでいる。無数の可能性の星星の中から、僕は今、この書斎の管理人という物語を選んだ。
本棚に眠る僕の人生達は確かに存在しているが、それらは今の僕が選ばなかった人生達。だから今は存在しない。選ばれなかった無限の可能性達は、本棚の中で選ばれる有限の今という瞬間を待っている。
その瞬間によって創られる物語。それを築く過去や未来の瞬間達という星星は常に曖昧だ。だから、どんな星座も描ける。
しかし、常に揺るがず変わらずにあり続ける一つの星という点がある。
それが今、この瞬間という原点。それを軸に、過去や未来へ無数に広がる星星の中から必要な星を選び集める。その選ばれた有限の星の点と原点を繋ぎ、星座という頂点の軌跡を描く。
その頂点の始まりは小さな一つの星、今という原点。この瞬間だ。これは簡単な事実で当たり前のことだが、意外と見失いやすい。その当たり前を忘れなければ、その事実を手放すことはないのだが……当たり前という詐欺師は、常にあざ笑いながら偽りの幻影を見せる。そう当たり前は、伝説の詐欺師なのだ。
さて、伝説の詐欺師を紹介したちょうど今、この瞬間、一人の作家がこの書斎に迷い込んでしまったようです。
作家は無限の可能性と、定めに縛られない無定で自由な思考を持つ。その素晴らしい力で物語を創り、それを有限の時空の中に表現する有定の運命を持つ。
それは誰もが持っている当たり前。無限の物語を自由に変えながら創る力と、有限の時空の中で物語を描くという変えられない運命。この二つを同時に持つ。不変の自由と変化する運命。
ここに迷い込んでしまった作家が、これからその二つをどうするのか。とても興味深いが、彼女はまだ眠っているようだ。僕は目覚めるまで、楽しみに待つことした。彼女はこれからどんな星座の軌道という物語を描くのか。
そして、僕はその場を後にする。目覚めの時まで。
私は悩んでいる。何か大切なことをしないといけない気がしたが、それが何かわからない。何かをやらないといけない。大切な何かを成し遂げないといけない。それを成し遂げるための何かを探していたような気がしたけど……そのことを考えると何もわからなくなってしまう。
そのうち、何を悩んでいたのか、わからなくなる。
悩みの樹海に迷い込んでしまった。私はそこを彷徨い疲れ、少し休むことにしたのを覚えている。
だけど、その場所が……ここだったのだろうか?
ここは書斎のようだ。窓や扉はなく、暖色の灯りが部屋を現す。たくさんの本棚があり、その棚は限りなく続いているように見える。きっと、この書斎はとても広い。
私は、その広い書斎の机で目覚めた。少しこの机で寝ていたらしい。意識をゆっくり起こし、私は本棚の近くへ歩いていく。
無数にある棚に並ぶ本達の表情を眺める。どれも同じような革表紙を着て綺麗に整列している。そんな本棚達が奥の暗闇まで続いている。
どこまでそれが続いているのか、この部屋の広さはどれくらいなのか、様々な疑問が私の好奇心を刺激する。
そんな刺激の中で、今の私に一番刺激を与えるものがある。それは一冊の本。その刺激的な本を手に取る。私の好奇心が導いた本のタイトルは……。
一章 テキトウ家の日常
朝が始まる。私は母に連れられ幼稚園へ向かう。途中いろんな人と出会う。小学生、中学生、高校生、大学生、社会人、お婆ちゃん……。
出会う人と挨拶をする。みんないい人で、私を可愛がってくれる。それは幼稚園でも同じで、いつも楽しく一日が終わる。そして、また朝が来る。きっと明日の朝が……。
今日も朝という戦いが始まる。私は急いで職場に向かう。途中、幼稚園に通う親子を見た。凄く可愛い女の子! この親子と挨拶をして、ちょっとした会話をすることが私の元気の秘密。
もちろん、他の近所の方々との会話からも元気をもらっている。
最近、その近所に少し気になる娘がいる。
それは今年中学生になった女の子。小学生の頃は元気よく学校に向かっていたが、最近は少し元気がなく、その姿を見ると少し心配。彼女は大丈夫だろうか? と気になっている。
彼女とは近所で少し付き合いがあるくらいで、20歳を越え年齢も離れた私が、あの子の心配をするのは余計なお世話かもしれないけど、私もあの子の気持ちが、ほんの少しわかる気がした。
新しい環境というのは、私にとって凄く怖い。
特に、小学生から中学生になる時は、その不安と初めて向き合う時だから。
小学生になった時は、そこまで物心がハッキリしていないけど、その6年間で不安をしっかり感じるほど人は成長する。そして、直面する最初の大きな環境の変化という恐怖。私もやっぱり怖かったし、今も正直怖い。
私があの子の力になれるか、わからないけど、きっと何かできることがあるかもしれない。少し考えてみる……。
そうだ、明日、あの子が好きなお菓子を持っていってみようかな? 好きなものを食べれば、少しは気分が軽くなるかもしれない。だから、明日の朝に……。
また朝がきた。
私は中学校に向かう。最近、悲しいことがあった。大好きだった親戚のお婆ちゃんが亡くなってしまった。
小学校の頃はよく遊びに行っていたが、最近はあまり顔を合わせていなかった。突然のことで、こんなことなら、もっと日頃から会いに行けばよかった、と後悔の日々。
さらに、辛いことは重なるもので、私は今、中学生という生活に上手く馴染めず、徐々に学校に行くのが怖くなっている。
仲がよかった数少ない友達とは、別の学校になってしまって、毎日着る制服が小学生とは違う重圧を与える。
こんな重圧は初めて。何も考えず、楽しく過ごしていた6年間とは違う。勉強の内容などより、学校の雰囲気が明らかに小学生の時とは違う。その変化に私は上手く対応できず、沈んでいる。今日も沈んだ気持ちで、中学生としての一日が終わる。
このまま私は一人、沈んでいくのだろうか……。
でも、それもいいのかもしれない、と考えながら帰宅し、部屋で悩んでいると呼び鈴が鳴る。玄関に向かうと、そこには近所の美人なお姉さんがいた。私の好きなお菓子を持って。
それから、そのお菓子を二人で食べながら、私の悩みを聞いてもらった。お姉さんも環境の変化には、今も上手く対応できない、と話すが、とても信じられたなかった。
毎朝、すれ違うお姉さんの姿は、素敵なレディにしか見えなかったから、意外な事実だった。
でも、お姉さんが嘘をついている、とも思えなかった。
だから、きっとそうだと思い。馴染めないのは私だけではないんだ、と思えた。
それから、お婆ちゃんのことも話して、その辛さも受け止めてもらった。悩みを聞いてもらえただけで、私の心にかかっていた重い雲は晴れていく。それだけでも十分だったのに、お姉さんは素敵な言葉を私にくれた。
「毎日の一瞬がいつも大切な瞬間。きっと、それをお婆ちゃんが教えてくれたんじゃないかな? 今の生活で感じることも、きっと大切だったと思える瞬間がくるよ。だから、無理しないで、できることを精一杯して、その瞬間を待ってみようよ! ……って、それが難しいんだよね。私もそうだけど……。でも、きっと大丈夫だから!」
お姉さんに言われて、私もそうだと思えた。きっと、いつかこの中学生の時代が楽しかった、と思える瞬間が来る。初めは辛かった小学生の生活も、今では楽しかったと思える。
そう思える瞬間を迎えられるように、私にできることをしようと決めた。学校に行くのはもちろんだけど、明日近所のお婆ちゃんの様子を見に行こう。会えるその瞬間を大切にしないと、きっと後悔するから。
朝が来たようだ。
私は一日が始まる朝の瞬間が大好きだ。
特に最近は、朝の瞬間に『生きている』という事実を強く実感する。新しい朝が来ることは、今の私にとって新しい世界がくるのと同じ。その新しい世界が動きだす時間、様々な人達が自分達の世界へ出発していく様子を眺めるのが好きだ。
幼稚園に向かう親子、仕事へ向かうレディ、学問の道を進むお嬢さん。お嬢さんを見ると昔のことを思い出す。旦那さんと出会い、楽しい時間を過ごした日々を。
そんな思い出に浸っていると、近所の中学生の女の子がやってきた。回覧板と私の好きなお菓子を持って。とても親切な子だ。少し昔の私に似ているような気がする。そんな彼女を見て、自分の孫の姿が思い浮かんだ。元気にしているだろうか。きっと毎日、いろんな事があって大変だろうけど、その毎日の一瞬が大切な瞬間。それがわかれば、どんな明日の朝でも迎えられるはず……。
今日も陽が昇り、朝が来た。
私は大学へ向かう。途中でいろんな方々と出会う。私にとって、この時間は大切な学びの時。自分のこれまでを振り返ったりする瞬間。
特に、近所に住む小学生の女の子を見ると、昔の自分と重なって見える時がある。大人しく、なかなか同級生と馴染めず、そんな自分が嫌いだった時期。
だけど、今思えば、そんな自分も素敵だと、思える私がいる。どこでそう思えたのかは忘れたけど、その大人しく幼い私がいたから、今の私がいる。
だから、いつかどんな自分でも「素晴らしい」と誇れる自分になれるといいよね、と心の中であの子に言っている。
本当は、それを直接言ってあげられたらいいのだろうけど、あの子の気持ちになると……。あれ、私もまだ引っ込み思案なのかな? 少し考え、明日あの子が大好きなお菓子を持って行ってみようと思う。
突然、時々会うだけの大学生の私が訪ねて来たら変かもしれないけど、どうしても昔の自分みたいでほっとけないから……。これは事案かしら? でも、とりあえず明日の朝……。
朝が来てしまった。
今日も学校へ行かないといけない。
小学生の私にとって、この朝の時間はとても辛い。あまり同級生と馴染めず、学校にいても辛い。
それでも学校へ向かう。途中、幼稚園に向かう親子を見て、私もあの頃に戻れたら、と思ったりする。まだ小学生だけど。
それか早く中学生なりたい! と近所の中学生のお姉さんを見て思ったり、活き活きとしている社会人のレディもいい! のんびりお婆さんもいい! と思ったり。
だけど、一番の憧れは女子高生のお姉さん! 凄くクールでかっこよくて、何より今の私よりも凄く元気で明るい。なんでも完璧なお姉さん。私も早くそうなりたい……と思いながら学校へ行き、一日中そのことを考えていた。同級生と馴染めない私は、いつもなりたい将来の自分を想像することを楽しみにしている。
学校が終わり、家に帰って好きなことをしていると、誰かきた。お母さんが呼んでいるので玄関へ向かうと、そこには大学へ通う美しいお嬢さんがいた。それも私が好きなお菓子を持って!
私、このお嬢さんにもなりたい!
明日は、大学生のお嬢さんや完璧な女子高生のお姉さんになれるかな? きっと明日の朝なら……。
朝、か……。今日も一日が始まってしまう。
だけど、やらなくてはいけないことが山積みで、全く何もできていない高校生の私。
大学進学か、就職か? そもそも、私がやりたいことって何? 逆に、どんなことなら私にもできる? そんなことを考える私にできることは、精一杯元気そうに日々を過ごすだけ。
近所の大学に通うお嬢さんを見て素敵だな、と思ったり、活き活きと職場に向かうレディを見ても素敵だと思ったり。
しかし、自分がそういう風にできるか、と言えば凄く疑問だ。とても自分が信じられない。それでも、決断の日が容赦なく迫ってくる。
そこから逃れたいのか、近所の中学生を見てはあの頃に戻りたい、幼稚園生を見てはあの頃にも戻りたい。だけど、一番戻りたいのは小学生の時代かもしれない。
近所にいる小学生の女の子を見ては、「小学校の6年間は最高に楽しいよ!」と教えてあげたくなる。
でも、この考えは少し誤りがある。本当はどの瞬間も最高に楽しいはずなのだ。それが今、できていない私には、何か自分では気づいていない問題点がある。私は完璧とは程遠い。
明日の朝には、その問題点に気づけたらいい、と願う日々。
本当は問題点がないことが問題なのかもしれないけど、何かが満たされない。私が忘れてしまった何か、失ってしまった何か、大切なことを忘れ、失った深い喪失感。その気持ちが満たされる明日があれば、それだけでいい。そういう明日の朝はいつくるのかな?
朝なのだろうか?
今、意識が戻ったけど、景色が見えず何時かもわからない。
私は薄暗い部屋の机で寝ていたようだ。辺りには無数の本棚と本。
ここはどこだろうか? そして、私は誰?
私はどうやら物語の旅路から逸れ、知らない世界に来てしまったようだ。しばらく、この未知の世界を彷徨ってみようと考えている。
きっと、そうすれば探しモノのが見つかる気がする。
『テキトウ家の日常』という本はここで終わっていた。
誰もいない書斎で私は疑問と向き合う。これはいったいどんな物語? そんな疑問だ。そこに答えはない。答えなどあるはずもない。
その事実に戸惑い、迷った。書斎に囚われ、惑迷(わくめい)という樹海を彷徨う私の前に影が近づく。その姿を確認しようとすと、そこにはスーツを着て二本足で立つ山羊さんの姿があった。そう、随分眠たそうな目をした山羊さんだ。
二章 書斎の管理人
その眠たそうな山羊さんは、お盆の上のコーヒーカップを私に渡す。そのコーヒーを頂くが、山羊さんも一緒にコーヒーを飲んだ方がいいのではないだろうか? とても眠たそうな目をしているから。
「はじめまして、テキトウ・テツガクさん。僕はこの書斎の管理人の肯定です。先ほど呼んでいた物語は、あなたの物語ですよ」
「肯定さん、どうして私はこの書斎にいるのですか? それから、この物語が私の物語とは、どういうことですか?」
「なぜ、この書斎にいるのか、正確なことは僕には分からない。きっと、それはテツガクちゃんにしかわからない。それから、あの物語に登場する女性は全てテツガクちゃんなんだよ」
「全て、私……?」
「そう、幼稚園に通う女の子もお婆さんも全てね」
「少し信じられないのですが……」
「そうだよね。それはきっと、『明日』が必ず『明日』だと錯覚しているからではないかな?」
「明日は、明日ですよね?」
「そうだね。例えば、『4月2日』に寝れば、次に来る明日は、『4月3日』だと思っているよね。それが『明日』だと。でも、『8年前の10月6日』に目覚めても明日だよね?」
「次に目覚めた日を『明日』と呼ぶのなら、そうですが……。2日の次に来る日は、3日ですよね? それが8年前の10月6日に目覚めるのですか?」
そう質問する私を見て、肯定さんは少し微笑みながら答えた。
「いつから、明日が順番どおりに来ると錯覚したの? タイムマシンを使って3日後の朝に旗を立て、3日前に戻り、そこからその旗を確認したのかい?」
「いえ、していませんが……。ですが、順番どおりに日付は進みますよね?」
「それはどうだろうか。ところで、テツガクちゃん。この目覚めが、人生の何回目の目覚めか、覚えている?」
「全く覚えていません!」
私は得意気に答える。誰だってそうではないでしょうか? これが人生で何回目の読書と覚えていますか? 私はそのことも全く覚えていない、と自信を持って答えられます。
「だよね。自分が今人生で何回寝て、何回目に覚めたのか。それすら、はっきりと覚えていないのに、本当に明日が想像する明日だと、どうして信じられるの?」
「た、たしかに……それを信じるのは、少し不思議な話だと思いますが……。それでも、やはり明日は明日で、順番どおりに日付が進む時空の中で、日々を過ごしている気がします」
当たり前な問いかけに確実な答えを出せず、不確かで曖昧な答えしか返せないのに、どうしても私は順番どおりに進む時空というイメージから抜け出せなかった。そこに肯定さんが新しい解釈を見せる。
「なるほど、『重力の定め』に従う住人らしい考え方だね。でも、時は幻なんだよ。時間は太陽がある位置を知る概念でしかない。そのことを忘れ、時が本当に存在すると錯覚している。だから、その時間の流れどおりに事が運ぶと信じてしまう」
「時間が幻ですか!? そんな、時間は確かにありますよ!」
「では、今が何時なのか答えられるかな?」
「え、えっと……それは……」
私はあたりを見渡すが、時を知らせるモノはない。さらに窓もなく、外の様子もわからない。お腹の時計も全く反応しない。正直、この山羊さんと話して、どれくらい時間が経ったのかもわからない。
答えに詰まる私を見た肯定さんが切り出す。
「もし、時が本当にあるのなら、どんな時空でもある程度、その時というモノを感じるのではないだろうか? 今だいたい何分くらい過ぎた、と答えられるでしょう。しかし、それは難しい。なぜなら、時は歪むからだ。楽しい時間と、辛い時間では同じ時間でも歪んでしまう」
「たしかに歪みます! 楽しい時間はいつもあっという間で、少し不思議に思っていました!」
「時が幻だという理由は、その歪みだけではないんだよ。絶対的なモノはどこから見ても変わらないものなんだよ。そう球体を想像してみて、どこから見ても一つの面。円が見えるでしょ?」
「たしかに、球体はどこから見ても、一つの円という面が見えますね」
「6つの面を持つ立方体は、見る位置によって見える面の数が変わる。それは、まるで見る位置によって変わる蜃気楼のような存在。そして、それを幻と呼ぶ」
「たしかに蜃気楼は見る場所によって、それが見えたり見えなかったりしますよね。ですが、時は球体と同じで、どこから見てもありますよ!」
「本当にそうだろうか? もし、蜃気楼と違う絶対的な存在なら、『共通時間』というものがあるはずだよ」
「『共通時間』ですか?」
「東の国でも西の国でも変わらない。統一された時間。21時は東では朝で、西では夜。そんな時間さ。でも実際は、夜を21時と呼ぶ。東でも西でも。それは太陽の位置を計っているからそうなってしまう。その地点での太陽の位置が時という幻なんだよ」
「たしかに時間と言うものはそういうものですね……。そう考えると、時は見る位置によって変わる蜃気楼のようなものですね!」
「そうだよ。だから幻なのさ。重力が見せる幻に囚われている。他にもお金という概念も幻さ。あと、人間という概念も」
「人間が幻ですか!? 私も幻なんですか!?」
お金に関しては驚かなかった。たしかに、同じ千円でも場所や国によって食べられるものが違う。同じ千円でも同じ体験を買えないから、それは幻と。でも、流石に人という概念が幻というのは、私の『重力の定め』が受け付けなかった。
「別に驚かなくても。テツガクちゃんは今この瞬間にいる。それが幻でも何でもいいじゃない? この瞬間を観測できるのなら」
「いえ、少し困りますよ! 幻だったなんて……ショックです!」
「そう? 幻って凄く素敵だよ? 例えば、その本棚を見てみて」
肯定さんが示す本棚には、本が隙間なく整列している。立派な革表紙に隠された物語達。私が本棚を眺めていると、肯定さんは続ける。
「その本棚にある物語も全て、テツガクちゃんの物語。その本棚の本の数だけ、テツガクちゃんが存在する」
「私は一人ですよ? 今ここに一人しかいませんよ?」
「そうだね。たしかに、今は一人だけど、それは『存在と同時に存在しない』という状態。今見ている世界は、テツガクちゃんが選んだ無限の可能性の一つなんだよ」
考え込む私を見た肯定さんは少し間を起き続ける。
「この本棚にある本を、全て同じ瞬間に読むことは難しいよね。どうしても一つの物語しか読めない。だけど、読まれてない時も、本棚の物語は存在している。読まれていないから存在してないように思えるけど、確かに存在している。それが『存在と同時に存在しない』という状態だよ」
「なるほど、私が一つの物語を読んでいる時にも、本棚の物語は存在している。私がそれを知らないから、存在していないように感じてしまうだけで」
「そう! そして、それは人生も同じ。今、この瞬間は、無限に広がる可能性から選んだ一つの物語の中の瞬間。他の瞬間は存在しないように思えるけど、そんなことはない。本棚の中や次のページで読まれる瞬間を待っているのさ」
「そういうものなんですか!? 私がロックスターになりたい、と思えば、ロックスターの私に出会えるのですか!?」
「もちろん、きっと次に目が覚めた時には、世界中の人が集まるステージで歌っているかもしれないよ」
「ですが、私、ギターを弾けません!」
「問題ないよ。ここで読んだ物語みたいに、ギターが弾ける状態の朝に目覚めればさ。今眠りに入って、目覚めた先で自分の意識が私はロックスター、と教えてくれたらそれを信じるでしょ? この瞬間の疑問なんか忘れて」
「そんな……まるで夢みたいな話が……」
私は考え込む。それは、夢のような話だった。今できないことができる朝に目覚め、この瞬間に感じる違和感を忘れ、その朝に対応する自分がいるなんて……。
ただ、よく考えてみれば、過去のことは夢と似ている。徐々にお互い不確かになり曖昧になっていく。それは当たり前のこと。特別考えもしなかったけど、私達はその当たり前という詐欺師に惑わされているのではないだろうか? 太陽の周りを回る惑星のように。
私は自分も知らない無限の今という瞬間を、これまで何度も見ていたのかもしれない。あの物語のように自分の様々な今を。街ですれ違う人も、実は私が観測できない別の今だったのかもしれない。そう思えた時、また会話が動き出す。
「そう、夢だよ。その夢って素敵じゃない? 凄く自由で、定めがない無定な存在。その夢と幻は変わらない。お互い無限の可能性を持つ、夢幻な存在。だから、幻は素敵なんだよ」
「そう考えると幻も素敵だと思いますが……」
「ただ、信じられないんだよね? それもいいんじゃないかな。それが『重力の定め』というものだよ。だけど、これだけは忘れないで。定めがある有定の世界にいても、人はみんな定めに囚われない無定の力を持つ」
「わかりました」
「じゃあ、ここで少しゆっくりしてね。きっと疲れているでしょ? 休めば何か思い出すかもしれないよ。それから、時間のことは心配しなくても大丈夫。ここは無限で無定の世界。だから慌てる必要はないからね」
肯定さんはそう言い近くにあるソファーに座る。
私は頂いたコーヒーを飲みながら、聞いた話を整理する。新しく入ってきた情報が舞踏会を開き、なかなか私の思考の本棚に収まらない。
苦戦しながらも私は、その感覚に懐かしさを感じていた。知識と戯れるこの感覚には覚えがあった。ただ、それがまだ思い出せない。
しばらく、ゆっくりする。『重力の定め』から開放された無定の世界で飲むコーヒー。その味は、有定の世界と変わらずに美味しかった。私は、会話の第二ラウンドをこのコーヒーの味から始めることに決めた。
「肯定さん、このコーヒー美味しいです! ありがとうございます」
「いえいえ。口にあってよかったよ。だって、それコーヒーじゃないから」
「コーヒーではない……?」
「そう、それは無定な飲み物。そうだな、コーラだと思って、飲んでみて」
言われたようにコーラだと思い飲んでみた。
すると、たしかにコーラだった……。炭酸のシュワシュワ、コーラの風味。そして、冷たい。さっきは暖かく、コーヒーの香りがする黒い液体が、冷たく甘いシュワシュワの黒い液体に変わっている。
「どういうことですか!?」
私は肯定さんに思わず訊ねる。
「ビックリするよね。でも、それが無定の世界の不思議さだよ。テツガクちゃんのイメージという定めが、全てを決める。オレンジジュースだと思えば、黒から鮮やかな色の液体に変わるよ」
それをイメージした瞬間、たしかに鮮やかな色の液体に変わり、飲まなくてもわかるくらいオレンジの香りが伝わってくる。
「凄いですね、この世界は! 本当に一瞬で変わりました!」
「これが『存在と同時に存在しない』というヤツですよ。そのカップには全ての飲み物が同時に存在している。だけど、味わえるのは一つだけ。選ばれた一つの味が存在し、他の味は存在しない」
「なるほど、選ばれなかった味はただ消えてしまうのではなく、次に選ばれるのを待っている、というわけですね!」
「そう、無定の感覚がわかってきたみたいだね」
「ええ、私の選択が全てを決める世界。無定の世界は素晴らしいです! 私、このままここの住人になりたいです!」
「それも素晴らしいね。だけど、いつだって無定の住人なんだよ。それを忘れていただけで」
「私は初めてこの書斎に来た、と思いますが……」
「"この書斎"は初めてかもしれないけど、どこにいても無定の力を持っていたんだよ。ただ、それは油断すると直ぐに忘れちゃうけどさ」
私は少し考え込む。記憶の中を探しても見つからない。難しい顔をして考え込む私に肯定さんが解釈を手渡す。
「きっと、有限の世界に戻った時、この記憶は『面白い夢』だった、と忘れてしまうだろうね。そして、目覚めた先で新しい記憶を創る」
「この書斎は私の夢の中、ということですか?」
「いや、そうとは限らないよ。この書斎での時間も夢ではないかもしれない。だけど、次に目覚めた時、それは消えていく」
「どうしてですか!?」
「ここで読んだ物語。あの登場人物が全て同じ自分だと信じられる? 大人の女性から次に目覚めると、女子学生に戻ったりするなんて」
「読んだ時は信じられませんでした」
「そうだよね。でも、朝起きると前日の記憶は夢に変わり、意識が別の情報を与えるかもしれない。昨日は中学生だったけど、今日は大学生だよ、と。それと同じだよ」
「そういうことですか。この時間が現実でも、目覚めた先でこの記憶が夢だった、と判断されたら消えてしまう……」
この時間が夢のように消えてしまう、と考えると寂しくなった。できれば、この物語を終わらせたくない。そう思った。
「でもね。珍しいことじゃないんだよ。昨日だって夢と同じさ。過去や未来は記憶を創れない。記憶は今この瞬間にしか刻めない。そして、刻んだ瞬間から徐々に朧な姿に変わっていくのさ。変わるスピードが少し違うだけでね」
「たしかに、過去の記憶も曖昧なものに変わりますし、未来の予定も曖昧ですね。そういう意味では、過去や未来と夢はあまり違いがないのかもしれませんね。どちらも不確かで曖昧な存在」
「そうだよ。夢だって見ている瞬間。その今の記憶は本物だよ。夢から覚め、過去のものになった時、あっという間に朧な姿に変わってしまうだけで。いつも確かなものは、今だけなんだよ」
「そうですよね……。私、この今を失ってしまいますか?」
「今という瞬間はずっと手の中にあるよ。大丈夫だよ」
「違います。この時間の記憶という今です。今、記憶として刻んでいる、この今です。肯定さんと話している、今この瞬間です」
沈黙が不意に訪れる。肯定さんは少し驚いた表情だ。沈黙がコーヒーを飲んでいることに驚いているのか、私の言葉に驚いたのか。その答えは不確かで曖昧なもの。そこから確かな今が訪れる。
「安心して、既に手にしているものは、絶対になくならないよ。きっと、いろんなところを探すだろうけど、探しものはその手の中にあるんだよ。いつもね」
「本当ですか!? 元の世界に戻っても、この記憶を忘れずに覚えていますか!?」
「その答えは少し難しいな……。きっと、それはテツガクちゃん次第じゃないかな?」
「私、次第ですか?」
「そう、忘れてしまうかはわからない。だけど、それを決めるのはテツガクちゃん。もし、本当に今この瞬間が必要なら、別の場所でも同じ今と繋がるよ。だって、過去も未来にも今はあるんだから。それは当たり前だけど、忘れてしまうこと。今はいつでも、どこにでもある」
「どんな時空にも今はある。いつも手の中に……。そうですね!」
「元気になってよかったよ。そうだ、もう一つ。今、面白いことを思い出しかけているよね? どこかで覚えがある感覚とか」
「えっ……あっ、そうでした! 私、知識や記憶と戯れる感覚に覚えがあるんです! それをしていると楽しくなるといいますか……懐かしくなるといいますか」
「じゃあ、凄い学者さんかもしれないね!」
「そうなんですか!? ただ、学者さんというよりは……存在しない何かを追いかけ、創っていたような……」
「それなら、偉大な文豪かな?」
その言葉を聞いた私の頭の中で、稲荷神社の雷様が私に中間色の稲妻を落す。そう、私は文章と遊ぶ文遊人。
「いえ、きっと文豪ではなく、文遊筆人(ぶんゆうひつじん・ぶんゆうぴつじん)だったと思います。ただ、その楽しさを見失っていたような……そんな気がします」
存在しない幻を追いかけ、追いかけ続け、どうにかしてその幻を表現しようと日々を過ごしていた。だけどその日々は、文章と遊び旅をする文遊筆人から徐々に離れ、ただの文筆家に近づいていた。幻を追いかけているはずが、逆に私が焦燥感に追いかけられ、私の原動力、遊びが少しずつ遠ざかっていた……。
「なるほどね、それは大変だったね。でも、ここなら大丈夫。その焦燥感も追ってはこないよ。焦る必要はないでしょ? だって、時間も定めもない。焦る必要はないのさ」
「そうですね……ただ、元の世界に戻っても幻を捉まえられるかどうか……」
きっと、私は少し暗い顔をしていたと思う。それに気づいた肯定さんは光の定めを私に見せる。
「急に申し訳ないけど、僕って何に見える?」
突然の面白い質問に戸惑いながらも、私に見える姿を答える。その姿は……。
「スーツを着た、眠たそうな山羊さんです!」
「なるほどね……でもさ、僕、人間なんだよ」
だけど、どう見ても二本足で立つ山羊の姿にしか見えない。
人間の姿をイメージしようとするが、なぜかそれはできなかった。やはり、山羊のイメージしか。
「逆に私はどう見えているんですか?」
「光と闇の中間色の長い髪。前髪は綺麗に切り揃えられ、穏やか過ぎる瞳を持つ美しい女性」
そう言われ、鏡でその姿を確認したかったが、鏡はこの部屋にはなかった。ただ、私を見る肯定さんがそう言うのなら、きっとそうなのだろう。仮に私の本当の姿が羊だったとしても、私はそれに気づけない。そう考えた時、何かくすぐったい気持ちになる。あと少しで何かが掴めそうな。そこに肯定さんが新たな解釈の風を起こす。
「でもさ、人ってそんなものだよね。自分の姿は見えない。鏡は偽りを映すかもしれない。他人は嘘をつくかもしれない。そもそも、自分が本当の自分を知らないかもしれない。そう幻なのさ。だから山羊でも人間でも、どちらでもいいことだよ」
「たしかに、そう考えると人も蜃気楼のような存在ですね」
「そうだよ。一人の英雄について十人が語れば、その英雄像は様々。だけど、その様々な英雄像はどれも『存在と同時に存在しない』真実なのさ。そう、偽りであり同時に真実」
「幻って凄く身近にあるんですね……。身近に――」
そうだ、幻は身近にある。虹の端っこを探してもなかなか見つからない。だけど、小さな虹を作れば、虹の端っこは見つかる。虹という幻のような現象は自分で創れる。私自身が幻なら、その私が創るものは全て幻。そのことに気づかず、幻の影の幻影を追っても、影の主である幻は捉まえられない。そう、洞窟に囚われた人が、壁に映る影の主の実体を知ることはできない、という考えと同じだ。だから、幻を追う必要はない。幻は既にある。私の手の中に既に。
「肯定さん! 私、探していたものを見つけた気がします!」
「さすが、テツガクちゃん! 文遊筆人の帰還だね!」
見失っていた探しものを見つけた私は、ここにきた理由を理解できた。そして、もう一つの事実とも向き合う。私が無定の力を再び手にした、という事実が示す、もう一つの事実。
「帰還……そうですよね。この記憶は忘れません! 私の手の中にある今を思い出します」
「テツガクちゃんなら、きっと出来るよ」
「それから、またここに来ることは出来ますか? 肯定さんに会えますか?」
せっかく取り戻した光だったが、また闇に吸い込まれそうになる。記憶を守れても、二度と会えない事実の影が私を深淵にいざなう。私はそんな光と闇の中間にある中間色の曖昧な存在。そんな私を光の定めがまた繋ぎとめる。
「それもガクちゃん次第だよ、全てね。ここに留まることも、またここにくることも、それとは別の選択肢だってある。いろんな可能性があるけど、そのどちらを見たい?」
肯定さんの自由な解釈が私に運命を届ける。私はそれを自由に解釈する。
「そうですよね。全て、私次第ですよね」
「そうだよ。ガクちゃんが見たい物語を描くといいよ。だから、ゆっくり休んで。きっと次に目が覚めるのは元の世界。それが何時なのかわからない。10代、20代、30代……。だけど、今、この瞬間が帰還に相応しい有限の時だよ。遅過ぎず、早過ぎずね」
そう伝える肯定さんの真っ直ぐな瞳を覗く私が見えた瞬間、私達は合わせ鏡のように違う時空にいても繋がれる。私は自分の運命を自由意志でそう解釈した。きっと鏡を覗くように簡単にまた再会できる。
「さあ、元の世界が偉大な作家の帰還を待っている。だから、その運命を自由な力で表現して。遠慮なんかしなくていいよ。夢定で夢幻な作品を表幻してよ。きっと、たくさんのお客さんがライブの開始を待っている。僕もその一人だよ」
肯定さんが私をステージに送り出すようにエールを送る。私も約束の言葉を返す。
「ありがとうございます! 『重力の定め』がある有限の世界に戻っても、無定の力を持っていることを忘れません! それから、今この瞬間の記憶も……わ……」
私が自由に解釈した答え。それを肯定さんに返そうと思った。彼の自由意志を彼の運命に変えて。だけど、私の伝えたい気持ちは、私の髪の色と同じ中間色の霞のように消えていく。
次に目覚める場所は地獄でもどこでもいい。ただ、この気持ち、この記憶、届かなかった私の声、それを守って欲しい。私から離れない影のように。私という幻の影、中間色の幻影よ。
夢のような幻の世界を抜けていく。
そこで見つけた探しもの。その無定の力で、有限の世界に無限の夢幻を表幻する。現実に幻を表現する表幻力、それは誰もが既に持っている。定めに囚われず、自由で無限の可能性を秘めた力。それは人の影のように離れず常に共にある。
その力を使い、限りある世界で有限の時空の中に、無定の世界という幻へ続く幻の影を表幻する。
それは凄く困難と同時にとても簡単なこと。なぜなら、当たり前を表すのは意外にも困難だが、それは当たり前のこと。そう気づけたら、それほど困難ではなくなる。全ては視点が決めることで、何事も『存在と同時に存在しない』と気づけたら、あとはそのどちらを見たいのか、それを決めればいいのだ。
私が描く新しい物語。きっとこれまでも何度も描いた人生という物語。それを完結させては、また描いてきただろう。それが宇宙のような果てのない書斎に広がっている。それぞれの星の瞬間が描く星座という物語が、書斎の本棚に並んでいく。それが永遠に続く。何度でも人生という物語を描き続ける。
そして、今この瞬間に私が描く物語。きっとそれは、いつかこの書斎の本棚に並ぶことになる。だけど、まだその時ではない。その新しい今という瞬間の物語は……。
序章 人生の書斎から旅立った作家
中間色の偉大な作家はこの『人生の書斎』を旅立った。
彼女がいないこの書斎はとても寂しい。その寂しさが『鉄カブト』を歌っている。とても美しい歌だ。その後も様々な歌が歌われる。ただ、その声の主は女性なのだが……。
「どうですか肯定さん!? 私のカバーは! 歌には自信がありませんが、どうしても歌いたかったので歌いました! 少しはロックスターみたいでしたか?」
「もちろんだよ! ありがとう。寂しさが一気に消し飛んだよ。でも、早かったね。もう、元の世界でやることは済んだの?」
「ええ、また戻ると思いますが、やるべきことはやってきました」
彼女はそういい書斎のソファーに座り込む。
きっと、不思議に思うだろう。なぜ、旅立った偉大な作家が、今度はロックスターとして戻ってきたのか。僕もそれには驚いたが、それが『当たり前』という詐欺師の見せる幻影の錯覚なのだ。
僕もあなたも既に彼女が描いた中間色の牡羊座という星座の物語を見た。そう『人生の書斎』というこの物語を。
彼女の無定で無限の力が見せる、夢幻で夢定のライブを最前列で見たのだ。ただ、それは当たり前のことだ。だから忘れてしまう。やっぱり、当たり前というのは伝説の詐欺師だ。全ての詐欺はこの当たり前の真似から始まる。
彼女があの後、どんな物語を描いたのか?
そこには無限の可能性が秘められている。元の世界で芥川賞に選ばれたが、それを蹴り飛ばし大活躍を続け、新たに中間色賞という賞を創ったり、妹のソフィーと共にロックバンド、『グレーハーツー』を始めたかもしれない。無限の可能性の中から、何を選んだのか。その詳しい物語は、今この瞬間を見ているあなたの力に委ねます。
そうやって様々なことを自分の想像力で描くことができれば、きっと自分の物語だって思い通りに描けるでしょう。
なぜなら、夢を見ることがない彼女がこの物語を描けたのだから。そう彼女は夢を見れない。だけど、夢を見る自分を想像し、この物語を描いた。
存在しない無定の幻を有定の世界に描く力。
それは誰だって持っている。無限の可能性を持つ夢という自由な幻、それを有限の時空に描く運命も同じように持っている。
その幻を表幻した瞬間、幻と現実は中間色のように混ざり、曖昧になる。そう、今この瞬間のように。中間色の作家がいるこの書斎にはいつでも来れる。
なぜなら、彼女がそこへ続く扉という物語を描いたから。この物語を読めば、その瞬間あなたはこの書斎に来る。
それは、解散したバンドの楽曲を聴く事と同じ。
過去にいる彼らの声が今この瞬間に届く。彼らの過去の今と共に。その当たり前に気づけたら、きっといつだって最高だと思えるでしょう。
過去がよかったと振り返ることは、その最高だった過去の今を覗くこと。過去や未来はお互い違うけど、どちらも同じ今によって創られる。最高だと思う過去、悩む今、不安に感じる未来。実はそれらは、同じ今によって繋がっているのです。最高だった過去の今、それを振り返る今、この瞬間。どちらも本当は同じ今なんです。当たり前ですけどね。
その当たり前が隠している不思議で凄い力に気づけたら、あなたはそれを上手く使いこなし、過去も未来も自由に変えられるはずです。
その二つは同じ今で繋がっているので、今が変われば全てが変わります。悔しい過去も、今が最高になれば、それを創る大切な過去という最高の今になります。今が最高なら、それが続く限り未来の今も最高です。そうです。今だけが確かなもので、変えられるのも今だけなんです。凄く当たり前のことですが、忘れてしまう当たり前。
他にも、届かないと思っている手紙。
それは、実は幻影の錯覚かもしれません。なぜなら、手紙を書いた瞬間、それが相手に届いているかもしれないからです。少なくとも、あなたの記憶の中にいる相手には届きます。届かない手紙が、記憶の相手とあなたを繋ぎます。それは、『届かないと同時に届く手紙』です。これも当たり前のことです。
これまで紹介したことは、全て当たり前のことです。
だけど、それらは凄いことです。でも、ただ凄いわけではありません。秘密の力を上手く隠し、気づかせないことが凄いのです。
うっかり忘れ、気づけば幻影の錯覚を見せられる。
そんな偉大な詐欺師、当たり前が持つ『当たり前』。それを盗める自信が、あなたにはありますか?
さて、そろそろお別れの時間です。
彼女のライブに最後までお付き合いいただき、ありがとうございます。彼女も大喜びです。アンコールまでできて、最高の気持ちです。
さあ、次はあなたが無限の可能性を秘めた無定の自由な力で、有限の時空に有定の運命という物語を描いてみてください。
あなたの影のように近くにある探し物と、当たり前という偉大な詐欺師の協力があれば、たいていのことは成し遂げられると思います。
僕達も新しい作家さんの活躍をとても楽しみにしています。
そして、その物語を必要としている誰かがいるはずです。
自分のために作品を表現するその姿に、不思議な力を貰う人もいるのです。僕もたくさんの人からその力を貰いました。
人は作品を表現する創造者と同時に、不思議な力も表幻する魔法使いだと思います。
未来の創造者であり、未来の魔法使いのあなたが描くその物語は……。
それでは、また次の機会にお会いしましょう。
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