2022年5月8日日曜日

ノンフィクションのパラドックス


 ノンフィクション。
 その存在がパラドックス。
 客観的な事実なんてものが。
 存在しないこの世において。
 確かにあるのは、主観的な事実。
 つまり、それは……誰かにとってフィクション。





テツガクちゃん
 ノンフィクション。
 そんな言葉の存在が。
 既にパラドックス、逆説だと。

 感じてしまう、肯定さんの疑問符に。
 気づいてしまいました! 私!


肯定
 気づかれてしまいました。

 さすが、名表幻者。
 そう、これがノンフィクションのパラドックス。
 事実の逆説だね。


テツガクちゃん
 どうもそのようですね。
 
 さて、ココから先は。
 肯定さんが先行する刻です。

 ガツンとドカンと。
 ぶち抜いてくださいな。


肯定
 それじゃ、遠慮なく。

 フィクション。
 創作、虚構、作り話。

 ノンフィクション。
 虚構ではない、作り話ではない。
 そんな事実と記録。

 こんな感じの薄い境界線は。
 何も分けていない、白線で。
 風が吹けば、消えてしまうライン。

 そう、空想と想像のままの今。
 それは、確かにフィクションなのかもしれない。

 しかし、それが目の前に。
 どんな形であれ、現れてしまえば。
 ノンフィクション、つまり事実だというのなら。

 もう、フィクションは。
 覗かれた瞬間に、フィクションではなく。
 ノンフィクションになってしまうのでは?

 まさに――。


テツガクちゃん
 深縁を覗く刻、深縁も覗いている。
 そんな感じですね!

 客観的な事実なんてものは。
 この世に存在しません。
 あるのは誰かの主観的な事実です。


肯定
 そう、まさにそれが。
 ノンフィクションのパラドックス。

 事実と記録をもとにつくられた。
 ルポルタージュ、現地報告、報告文学。

 それが、その瞬間の全てだって。
 信じられる人が全てではない。

 それはプロパガンダで。
 何かの思想や意図があって。
 そう、疑う心を持った人もいて。

 だけど、その気持ちも。
 間違いではない。

 どんな声も。
 一人の意見に過ぎなくて。
 10人いれば、10人分の山本五十六さんがいる。

 そのどれもが、山本五十六さんであり。
 創作や虚構や作り話ではなく。
 それぞれの人の事実。

 誰にとっても同じ事実。
 そんなノンフィクションなんてものは。
 この世に存在しないのが。
 ノンフィクションなのかもしれない?

 そんな疑問符が。
 ノンフィクションのパラドックス。


テツガクちゃん
 きっと、存在しないのでしょう。

 ゲームにせよ、漫画にせよ、映画にせよ。
 それを感じてしまった今は。
 紛れもなく迷うこともなく。
 あなたの事実です。

 そうです、今、この瞬間。
 私と肯定さんの話を覗いてしまった。
 あなたの今が、フィクションだというのですか?

 まさか、そうではないと。
 私は信じています。

 事実や記録。
 それは五感で感じられるものとは限りません。
 むしろ、感じられない感覚。
 第六感や第七感、第八感が感じとったことも事実でしょう。

 怒ってないよ。
 そう視覚と聴覚と触覚に訴えても。
 五感の外の感覚が、違うと反応するのも事実です。

 フィクションとノンフィクション。
 それを分ける線は。
 狭い校庭にひかれた白線のようなもので。
 脚で消してしまえば、見えなくなる脆い幻想です。

 どちらも今、この瞬間に存在している。
 その確かな事実の前では。
 ラインを越えた向こう側へ。
 辿り着く方法は……。

 あなたのステキな想像力が知っています。
 北を指さない羅針盤のような想像力です。

 きっと、おそらく、たぶん。




それでは、また次の機会にお会いしましょう。












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無関心は希望

 好きの反対は無関心。  そんなたわ言、誰が言ったのか知らないが。   今の私からすれば無関心は希望。  今まで気づけなかった、その未知は。  愛しの故郷、待ちきれない今は夢の今。